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2011年12月16日金曜日

国際正義、戦争における資源の略奪、人権と多国籍企業

以下の文はスペイン人弁護士ジョルディ・パラウ・ロヴェルドス (Jordi Palou Loverdos)
による INTERNATIONAL JUSTICE, PLUNDER IN WAR, HUMAN RIGHTS AND MULTINATIONALSの訳である。平和と人権シリーズのレポート16 (Materials of Peace andf Human Rightsw: 16) 発行はBarcelona: The Office for the Promotion of Peace and Human Rights, Generalitat de Cataluna, 2010
wwwgencat.cat/dirip

コンゴ民主共和国の紛争をケースワークとして扱った3章から訳します。

第3章
多国籍企業とその他の非国家主体、暴力と略奪の関連性、コンゴ民主共和国のケース 

以下の短い分析はコンゴ民主共和国(元ザイール)で続いている武力紛争の状況説明である。これらの紛争は複雑であり、その利害関係は世界各地に及んでいる。そこでは権力乱用と膨大な規模の人権侵害そして国際的で地理経済的な犯罪が行われている。

中央アフリカで見られる現代の戦争形態は1989年のベルリンの壁崩壊以前の地政学的バランスが冷戦以降に変化する中で形成されてきた。ベルリンの壁崩壊により世界中の国家や非国家主体が地政戦略的な再配置を急激に行おうとした。中央アフリカで起こった紛争で後に戦闘状況となったものは新しいものではないが、そこには過去10年の間に発展した現代の戦争形態と呼ばれる新しいパターンも見出すことができる。

3.1 コンゴ民主共和国の紛争を考察する 

国際的な専門家の多くはルワンダの紛争とそれに続くコンゴ民主共和国での紛争を、互いに嫌悪しあう民族による部族紛争であると説明してきた。そこには国外からの介入はほとんどないか、あったとしても偶発的なものとして扱われた。

これらの暴力的な紛争について深く調べると、新しい形態の戦争と搾取の下に古来からの人間の欲望が見えてくる。コンゴ民主共和国の東部がここ数十年で最も悲劇的な軍事紛争の舞台となったことと、この地が地球上でもっとも資源が豊富であることは偶然ではない。コルタン、ダイアモンド、銅、コバルト、金、錫、亜鉛、マンガンといった戦略上不可欠な鉱物資源と木材である。以下の地図は中央アフリカのこの地域にどのように資源が分布しているかを示す国連資料である。

中央アフリカのこの地域で自然資源を不法に搾取するというのはもちろん今に始まったことではない。1885年のベルリン会議に続く1879年に、ベルギーのレオポルド二世はコンゴ植民地を会社として統治することを提案した。後の1960年6月4日に独立を果たしたコンゴの選挙で首相に選ばれたばかりのパトリス・ルムンバは政治的独立の次は経済的独立が必要であると主張した。

すでに首相として初めての正式な場でルムンバは、外国勢力がコンゴの自然資源を盗用するために独立したてのこの国の元首を傀儡に挿げ替える危険について警告を発した。ルムンバは独立の日に演説をしてからまだ数ヶ月しかたっていない1961年1月17日に暗殺された。死亡状況などは未だに完全に解明されていない。

1965年にジョセフ・デズィレ・モブツがクーデターで政権を掌握した。この武力政変の目的はザイールを搾取し、モブツの個人的利益と彼に支援を与えている国々や企業の利益を生む商業会社として国を利用することであった。この資源がこの上なく豊かな国の大多数の人々は、それとは対照的に絶対的貧困に喘ぎ今でもそれは変わらない。

その後に1989年に起こったベルリンの壁の崩壊は大きな変化をもたらした。ザイール東部の資源はベルリンの壁崩壊後に現れた「新世界秩序」下でも引き続き、しかし別の角度から強く求められた。最近機密解除された米国の諜報機関の書類で立証されたように、イラクやパレスチナなどの特定の国々で内紛が意図的に扇動された。

すでに存在している分裂に乗じて対立する民族や派閥間の紛争が助長され、地政学的そして地理経済的な戦略にそれらの紛争が利用された。戦略は東部ザイールにある最も重要な資源を支配する為のもので、軍事を含む様々な手段が用いられた。これらの目的を達成させるためには直接介入以外の方法で段階ごとに一歩ずつ進めるべきであるとされた。

最初はルワンダである。1994年でその国に起こったことの直接の結果として多くの人々が家や土地を棄てて国内避難民用のキャンプに流れた。百万人以上の主にフツ民族のルワンダ人が国外に避難して自分らの難民キャンプを作った。これらの難民のほとんどはザイール(現在のコンゴ民主共和国)とそれ以外のルワンダと国境を接する国々へ逃れた。ザイールの難民キャンプのほとんどはその国の東部にあり、キャンプ多くは鉱物が豊富に採れる地域にあった。次の地図を参照。

その当時から現までルワンダ政権は一貫してザイールとの国境の安全についての危惧を表明し続けている。しかし客観的に見てこの戦略的地域とその貴重な鉱物資源を支配することが多大な被害者を生んだ二回の戦争の核心にあったのが現実だ。これらの被害者の中にはルワンダ人もいたが大多数はコンゴ人である。

これらの戦争には中央アフリカの幾つかの国々とその軍隊そしてまた重要な非国家主体も関与した。それらの国家または非国家主体のあるものは軍事と後方支援に関わり、あるものは貴重な自然資源の採掘、運送、売買に従事した。

1996年と1997年にルワンダ愛国軍・愛国戦線(RPA / FPR)はザイールの東部にあるフツ難民キャンプを組織的に攻撃して数十万のルワンダ人とコンゴ人を殺し、ダイアモンド、コルタン、金などの鉱物資源の略奪の手配をした。 

RPA / FPRは「コンゴ担当課」と軍事情報総局と対外安全保障局(ルワンダ国外に配置された軍情報機関)と、多国籍企業や西欧勢力に支援されたルワンダの企業などによる指示の元に複雑な軍事活動網を築き上げ1998年の第二次軍事侵攻以降もこれらの行動を続けた。コンゴ民主共和国東部での殺戮と略奪は現在まで続いている。

ザイールでの戦争に向けた準備については、前述のスペイン起訴命令によるとルワンダ軍に属す者らが1995年にすでにバニヤムレンゲと呼ばれる人々と接触を持っていた。彼らはバニヤムレンゲに1995年から1996年の半ばまでルワンダとザイールの両国内で極秘の軍事訓練をしていた。

政変が組織され実行に移されたやり方は驚くべきものである。ザイールのモブツのように独裁または権威主義政権であることに議論の余地がないケースで、国家公務員と多国籍企業が、なにが起こっているかを熟知した金融、経済、政治そして軍事界の支援を受けて企画し行った「政変」であったからだ。

1990年代の中ごろから米国の政治界の一部で「ザイールの政権交代」の可能性について意見が密かに流布されていた。1996年当時米連邦下院議員であったシンシア・マッキニーは他の者数人とザイールに視察調査へ行くことにした。

マッキニーが出席した重要な会合数々で特に意義深かったのはルムンバシ(ザイール東南部)で当時反政府指導者であったローレン・デズィレ・カビラとのものであった。議員によると彼女のザイール行きの飛行機はアメリカン・ミネラル・フィールドというカナダの多国籍鉱業会社がチャーターしたものだった。議員のザイールへの最初の旅は紛争勃発直前の時期であった。彼女はその会社の経営代表者らと飛行機で同乗したが、会社に属していない他の人々も同乗しているのに気づいた。その中でも特に彼女を驚かせたのは、そこに武器密売業者も数人いたことだ。

それとほぼ同じ時にルワンダ新政権の指導者ポール・カガメは米国防省の高官と米政府中央アフリカ問題担当官らと会見した。これらの会見から2ヶ月もたっていない1996年10月にルワンダ、ウガンダそしてブルンディの軍隊がアメリカの支援と多大な軍事及び後方支援を受けてバニアムレンゲのグループと共にコンゴ・ザイール解放民主勢力連合(AFDL)の名の下にザイールの国土を侵略した。この軍隊は国際社会には「解放戦争」遂行しているものとして報じられた。

国連その他の国際機関が発行した書類によると25万人から37万5千人のほぼ全員がフツ系であるルワンダ難民が重火器と軽火器によって組織的に虐殺された。数十万人が逃避を余儀なくされ、ザイールのジャングルに追い込まれた。生き残ったものは主にザイール国内の様々な経路を約2千キロも渡り歩いた。

多くの報告の中でも社会学者ベアトリス・ウムテシが出版したものはバランスの取れたアプローチと勇気ある証言で際立っている。ルワンダ難民であった彼女はこれらの虐殺で生き残り、子ども、女、男、年老いたものすべての人々の苦しみを鮮明に描写した。これらの人々は戦火により、病気や餓えにより、そして組織的な性的攻撃により、またはこれらのうちの幾つかが重なることによって破壊され死んでいった。このような事態が進行する中で国連難民高等弁務官(UNHCR)は適切な援助を怠ったばかりでなく組織の権限を越えて難民をルワンダに強制送還した。送還されたものの多くがが裁判も認識できる起訴罪名もないまま虐殺の罪で集団で起訴され、弁護人もないまま刑務所に入れられていることや、場合によっては「消えうせて」いると知っていながらそれを行ったのである。

ベアトリス・ウムテシの報告最後にある「10ドルで取引される私の命」という章でザイールのブカヴ(ザイールの東側国境沿い)からムバンダカ(西側国境沿い)までジャングルを突っ切って兵士の攻撃から逃れながら悲劇的な逃亡を行った様子を描写している。疲労しひどく病気であった状態で国連難民高等弁務官(UNHCR)に強制送還されそうになった。この国連組織は地元のコンゴ人がルワンダの難民が居る場所を教えると一人につき10ドルを払っていた。


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